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仏教などでは瞑想すれば悟りを開くことができる、あるいは悟るためには瞑想しなくてはならないと説かれており、また受け止められている。

しかし、これは(そのまま間違いというわけではないのだけれど)少々問題のある考え方と言える。

瞑想は「何かのため」にするものではない。それ自体が目的であるのだ。ダンスに興じる人々はダンスをすることに別な目的を持ち込んではいない。それ自体が「したいこと」である同時に「しなければならないこと」活動、いわば今、ここで生きていることの表現であるからだ。

禅に伝わる下記のような問答がある。
弟子に師は問う:
 「お前は何のために座禅をしとるのかね」
 「仏になりたいからです」
 その答えをきいた師はかたわらの瓦をゴシゴシ磨きはじめる
 「何をしておられるんですか師匠」
 「この瓦を鏡にするのだ」
 「瓦を磨いても鏡にはなりませんよ」
 「ならお前はなぜ座禅をしているのだ?」

人は仏にはならない。何万時間を費やそうとも「私」と「仏」を区分し、「仏になりたい」という欲望を座禅に持ち込んでいれば、それはもはや瞑想でない(何らかの超常的な現象には遭遇するかもしれないが、それは瞑想の本質ではない)。

すでに仏であるから瞑想をするのだ。まったく仏教にも霊性にも縁のない人々も、その実態は如来なのだ。瞑想はその人の内にある仏性をこの世界において表現することであり、目的だ。修行をする者にとって、何らかの手段ではなく「すべきこと」であると同時に「したいこと」であるとき、瞑想は実現する。