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思考が停止する一瞬がある。音の背後にある無音、音が存在することを許す無限を意識する時などに思考ではない私たちの本質、意識性が立ち現れることがある。

これを常々意識する。いついかなる活動時にも自分の意識性を保ち続ける。決して思考に飲み込まれてはいけない。かといって思考を止めようとしてもいけない。思考をもって思考を止めようとすることは、火をもって火を消そうとしているのと同じで火勢は増しこそすれ衰えることはない。大体、熟睡か気絶しているのでなければ私たちの脳は思考を紡ぎ続け、それは膝蓋腱反射のようなもので不随意だ。止めるのではなく、意識性を感じながら思考を見守るのである。

身体自身に身体の面倒を見させればよい。空腹になれば食べ、排便も欲求に応じてする。同様に脳には思考を生み出させ続ければよろしい。しかし、その思考や欲求を「私自身」と思いなすことは避ける。

もちろん最初は思考に飲み込まれていく。幼い頃より「自分とはこの肉体であり思考である」と散々に条件付けをされてきているのだから無理からぬところではある。めげずに意識性に主体を戻していきたい。徐々にではあるが、自然に意識性に主体は移っていく。

そこは思考のない平安の世界である。身体の痛みや欲求、思考は従来通り生じてくる。これは避けようがない。しかし、それに振りまわれて泣きわめき、あれこれ手段を講じては自体を悪化させるような愚は選択しないでいられる。どんな痛み苦しみ、そして楽しみ喜びもただ過ぎ去っていく。そのことをアタマではなく全存在として理解するのだ。