v018

インドの古い伝統ではこの世界のことを「リーラ」、神による戯れだと言う。ラジニーシ(晩年はOshoと名乗った)もよく人生のことを「それは壮大なジョークだ」ど言っていたように思う。確かにそのようにも感じられるのだが、遊びにしてはあまりにも楽しくないしジョークにしては趣味が悪すぎる。

v017

ブッダ老荘の教えを聴き、読んで学ぶことは役に立つ。意欲がわくし、自分にもできるかもしれない、と思わせてくれるからだ。しかし、それらの言葉もまたあなたの外部であり、真実ではなく、その在り処を示す補助線にしか過ぎない。言葉をあがめてはいけない。真に礼拝すべきなのはあなたの内なる真実、これ以外にはないのだ。

v016

現代に生きる私たちは、過去どの時代に比べても様々な快をむさぼることができる。大きなスーパーマーケットに行けば世界各地の美味しいものが安価で手に入る。先のことを考えて出費を節約することをやめたなら、連日晩餐会が開けるだろう。しかも過去の王侯貴顕ですら手に入れることが難しい食材を山ほどそろえた上で。一方、「白いご飯を腹いっぱい食べたいなあ」と思いながら飢えの中で死んでいった人が多くいる。これはそう昔のことではないし、世界を見渡してみれば9人に1人までが飢餓による生命の、あるいは将来における発育不全の危機に瀕している。

贅沢言ってないでがんばれ、などといった愚昧なことを言いたいのではない。かつての貴族階級を遥かにしのぐ贅沢ができる私たちが、全く幸福からほど遠い状態であることを問題にしたいのだ。

おいしい食事、冬には暖房、夏の厳しい暑さの中でもエアコンは部屋を涼しく快適に保ってくれる。にもかかわらず、私たちは決してそれに満足しない。美味を味わう快楽は長続きしない。食事をしている間ずっと、私たちは明日受けることになる試験を心配し、先日の仕事におけるミスを思い出して不快な気持ちにおちいり、あるいは腰の痛みに悩まされている。

私たちの生は、生きているから、感覚を持っているから可能な喜びに満ちていると、多くの人はそう思いなしている。それらは「生者の特権」などと言われたりする。しかしそれは誤りだ。人は感覚的なよろこびよりも将来おこりうる不都合なこと(損害や負傷、借金と増え続ける利子)への不安、究極的には死への恐怖にとらわれるようにできている(最近ではネガティビティ・バイアスと名付けられている)。私たちの生を彩っているのは生き生きとしたよろこびではなく、錆の色をした病と老い、そして死に対する不安なのだ。

感覚的なよろこびというものは、それらの苦しみを一時的に麻痺させるだけのもので、本質的な幸福からはかけ離れている。このことを十全に理解すれば、追い求める無意味さもまた理解され、この世に対する執着は失われていく。

v015

瞑想にせよその他のワークにせよ、実践したところで金がもうかるわけでもモテるわけでも誰かに尊敬されるわけでもない。むしろ「何やってんだ」という感想をもらうことが多いのが世間の習わしというものだ。しかもなかなか効果は現れない。平和も悟りも愛も異次元の彼方にあるように思えてくる。これまで生きてきて築いてきてしまったエゴという城塞は(幻であるにも関わらず)たいそう堅固なもので、打ち破るのは容易いことではないからだ。それで嫌気がさしてくる。知人や家族は学業なり家事なり仕事なりに精を出しており、街を歩いてみると着飾った人々が楽しそうに買い物したり遊んでいたりする。現代では金のかからない娯楽すらあふれかえっている。みんな楽しそうだ。自分はと言えばひたすら瞑想に打ち込んでおり、大変苦しい。瞑想がもたらす「自分への直面」はエゴが暴れまわるので当初非常につらいものなのだ。そしてこのままでは老後のための貯金も保険も年金も期待できない。
「何やってんだおれ」とか「もういいかな」とあなたは思う。聖者などと名乗るうさんくさい連中の世迷言に付き合っていた自分がバカだった、これからは社会に復帰し、仕事にしっかり取り組んで出来れば有名になってモテたい。そして稼いだお金で人生を楽しもう。そう思う日が必ずやってくる。
そういう時に次のことを思い返してほしい。苦しみからの解放というテーマは、歴史をさかのぼれるだけで4000年ほど人類は取り組んできたのだ。資本主義なんぞここ400年くらいの発明であるし、自己実現などというアメリカ式の個人主義などもっと新しい。ちょっと前までイエなり国家なり民族なりの共同体が優先され、「個人」というものが共同体に奉仕することが当然とされる社会がえんえんと続いてきたのだ。その中で先人たちは現代に生きる私たちよりも遥かに激烈な逆風のなか修行に明け暮れ、経験の中から共有すべきものを後世のために、と残してくれた。またそのノウハウを守り、伝えるのに文字通り命までかけざるを得なかった人々も多くいる。古代より不変にして普遍のテーマに挑むことは決して奇矯でも珍妙でもない。ここ最近出てきた経済思想の奴隷としてひたすら搾取されて生きていくことの方が、後世から見ると「馬鹿げた生き方だ」と判断されることだろう。