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瞑想にせよその他のワークにせよ、実践したところで金がもうかるわけでもモテるわけでも誰かに尊敬されるわけでもない。むしろ「何やってんだ」という感想をもらうことが多いのが世間の習わしというものだ。しかもなかなか効果は現れない。平和も悟りも愛も異次元の彼方にあるように思えてくる。これまで生きてきて築いてきてしまったエゴという城塞は(幻であるにも関わらず)たいそう堅固なもので、打ち破るのは容易いことではないからだ。それで嫌気がさしてくる。知人や家族は学業なり家事なり仕事なりに精を出しており、街を歩いてみると着飾った人々が楽しそうに買い物したり遊んでいたりする。現代では金のかからない娯楽すらあふれかえっている。みんな楽しそうだ。自分はと言えばひたすら瞑想に打ち込んでおり、大変苦しい。瞑想がもたらす「自分への直面」はエゴが暴れまわるので当初非常につらいものなのだ。そしてこのままでは老後のための貯金も保険も年金も期待できない。
「何やってんだおれ」とか「もういいかな」とあなたは思う。聖者などと名乗るうさんくさい連中の世迷言に付き合っていた自分がバカだった、これからは社会に復帰し、仕事にしっかり取り組んで出来れば有名になってモテたい。そして稼いだお金で人生を楽しもう。そう思う日が必ずやってくる。
そういう時に次のことを思い返してほしい。苦しみからの解放というテーマは、歴史をさかのぼれるだけで4000年ほど人類は取り組んできたのだ。資本主義なんぞここ400年くらいの発明であるし、自己実現などというアメリカ式の個人主義などもっと新しい。ちょっと前までイエなり国家なり民族なりの共同体が優先され、「個人」というものが共同体に奉仕することが当然とされる社会がえんえんと続いてきたのだ。その中で先人たちは現代に生きる私たちよりも遥かに激烈な逆風のなか修行に明け暮れ、経験の中から共有すべきものを後世のために、と残してくれた。またそのノウハウを守り、伝えるのに文字通り命までかけざるを得なかった人々も多くいる。古代より不変にして普遍のテーマに挑むことは決して奇矯でも珍妙でもない。ここ最近出てきた経済思想の奴隷としてひたすら搾取されて生きていくことの方が、後世から見ると「馬鹿げた生き方だ」と判断されることだろう。