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現代に生きる私たちは、過去どの時代に比べても様々な快をむさぼることができる。大きなスーパーマーケットに行けば世界各地の美味しいものが安価で手に入る。先のことを考えて出費を節約することをやめたなら、連日晩餐会が開けるだろう。しかも過去の王侯貴顕ですら手に入れることが難しい食材を山ほどそろえた上で。一方、「白いご飯を腹いっぱい食べたいなあ」と思いながら飢えの中で死んでいった人が多くいる。これはそう昔のことではないし、世界を見渡してみれば9人に1人までが飢餓による生命の、あるいは将来における発育不全の危機に瀕している。

贅沢言ってないでがんばれ、などといった愚昧なことを言いたいのではない。かつての貴族階級を遥かにしのぐ贅沢ができる私たちが、全く幸福からほど遠い状態であることを問題にしたいのだ。

おいしい食事、冬には暖房、夏の厳しい暑さの中でもエアコンは部屋を涼しく快適に保ってくれる。にもかかわらず、私たちは決してそれに満足しない。美味を味わう快楽は長続きしない。食事をしている間ずっと、私たちは明日受けることになる試験を心配し、先日の仕事におけるミスを思い出して不快な気持ちにおちいり、あるいは腰の痛みに悩まされている。

私たちの生は、生きているから、感覚を持っているから可能な喜びに満ちていると、多くの人はそう思いなしている。それらは「生者の特権」などと言われたりする。しかしそれは誤りだ。人は感覚的なよろこびよりも将来おこりうる不都合なこと(損害や負傷、借金と増え続ける利子)への不安、究極的には死への恐怖にとらわれるようにできている(最近ではネガティビティ・バイアスと名付けられている)。私たちの生を彩っているのは生き生きとしたよろこびではなく、錆の色をした病と老い、そして死に対する不安なのだ。

感覚的なよろこびというものは、それらの苦しみを一時的に麻痺させるだけのもので、本質的な幸福からはかけ離れている。このことを十全に理解すれば、追い求める無意味さもまた理解され、この世に対する執着は失われていく。