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ここにあるのは厭世と絶望と果てしなく続く荒れ果てた河原の景色である。

この文章の束はスピリチュアリティについて取り扱っているが、流行りの「Google社も採用している生産性を向上させるマインドフルネス」、「引き寄せの法則」とかアセンションとか次元上昇などといった前向きのスピリチュアルとは全く関係がない。読んで実践しても金はもうからないしモテもしないし出世もしない。むしろ社会性を失っていく公算が強い。

死の寸前でかろうじて踏みとどまって「もう二度と生まれてくるもんか」という絶望に満ちた人だけが本気になって解放、すなわち完全消滅のためのワークに取り組める。そういう生きていることにもう飽き飽きし、世の中の有象無象にはもうウンザリだという人に向けて掲示されたものだ。

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「もし何らかの事情で生まれていなかったら、『この私』は今ごろどうなっていたのだろう」。こんな風に考えたことがあるかもしれない。

実は何も変わらない。

生まれなかった場合、ただただこの現世にアクセスする手段はもっていなかった、というだけのことなのだ。記憶を蓄積したり食事をしたりといった人間の活動・経験をすることは不可能ではあった。しかし、私たちの本質は[全体なる一つ]であって、人間としてのかたちを持つことは覗き窓が開く、というくらいのことである。

この世界の全ては[全体なる一つ]の内で生じている。生まれることも死ぬことも除き窓の明滅である、と表現できる。

[全体なる一つ]には時間が存在しない。その不動の地点から時系列で組み立てられたこの世界という像を、人間として経験しているのが今ここの私たちだ、ということ。

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思考が停止する一瞬がある。音の背後にある無音、音が存在することを許す無限を意識する時などに思考ではない私たちの本質、意識性が立ち現れることがある。

これを常々意識する。いついかなる活動時にも自分の意識性を保ち続ける。決して思考に飲み込まれてはいけない。かといって思考を止めようとしてもいけない。思考をもって思考を止めようとすることは、火をもって火を消そうとしているのと同じで火勢は増しこそすれ衰えることはない。大体、熟睡か気絶しているのでなければ私たちの脳は思考を紡ぎ続け、それは膝蓋腱反射のようなもので不随意だ。止めるのではなく、意識性を感じながら思考を見守るのである。

身体自身に身体の面倒を見させればよい。空腹になれば食べ、排便も欲求に応じてする。同様に脳には思考を生み出させ続ければよろしい。しかし、その思考や欲求を「私自身」と思いなすことは避ける。

もちろん最初は思考に飲み込まれていく。幼い頃より「自分とはこの肉体であり思考である」と散々に条件付けをされてきているのだから無理からぬところではある。めげずに意識性に主体を戻していきたい。徐々にではあるが、自然に意識性に主体は移っていく。

そこは思考のない平安の世界である。身体の痛みや欲求、思考は従来通り生じてくる。これは避けようがない。しかし、それに振りまわれて泣きわめき、あれこれ手段を講じては自体を悪化させるような愚は選択しないでいられる。どんな痛み苦しみ、そして楽しみ喜びもただ過ぎ去っていく。そのことをアタマではなく全存在として理解するのだ。

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仏教などでは瞑想すれば悟りを開くことができる、あるいは悟るためには瞑想しなくてはならないと説かれており、また受け止められている。

しかし、これは(そのまま間違いというわけではないのだけれど)少々問題のある考え方と言える。

瞑想は「何かのため」にするものではない。それ自体が目的であるのだ。ダンスに興じる人々はダンスをすることに別な目的を持ち込んではいない。それ自体が「したいこと」である同時に「しなければならないこと」活動、いわば今、ここで生きていることの表現であるからだ。

禅に伝わる下記のような問答がある。
弟子に師は問う:
 「お前は何のために座禅をしとるのかね」
 「仏になりたいからです」
 その答えをきいた師はかたわらの瓦をゴシゴシ磨きはじめる
 「何をしておられるんですか師匠」
 「この瓦を鏡にするのだ」
 「瓦を磨いても鏡にはなりませんよ」
 「ならお前はなぜ座禅をしているのだ?」

人は仏にはならない。何万時間を費やそうとも「私」と「仏」を区分し、「仏になりたい」という欲望を座禅に持ち込んでいれば、それはもはや瞑想でない(何らかの超常的な現象には遭遇するかもしれないが、それは瞑想の本質ではない)。

すでに仏であるから瞑想をするのだ。まったく仏教にも霊性にも縁のない人々も、その実態は如来なのだ。瞑想はその人の内にある仏性をこの世界において表現することであり、目的だ。修行をする者にとって、何らかの手段ではなく「すべきこと」であると同時に「したいこと」であるとき、瞑想は実現する。

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この文章を作っている人間は長年にわたる精神疾患とそれがもたらす苦痛によって自我が大きく破損している。これは社会的には大変残念な人間になり果てる(具体的には仕事など社会的な活動においてほとんど役に立たない)ことを意味している。

一方で自我の力が小さくなっている分、真の自己が現れてくる余地が生じたのだ。真の自己は人に知覚をもたらすが、それ自身は何をも欲望しない。なのでこの人間は日に日に食べ物を受け付けなくなり、性的な刺激に対する興味が減退していき、口数が少なくなり、眠っている間もどこかが覚めていて夢を見なくなっている。今は気づきをふりかえり、あるいは誰かの役に立つ可能性を鑑みてこうして文章を綴っているが、それもじきに止むだろう。

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苦しみから解放されれば無為となる。欲望から解放された人、最大の困難である己の欲望を諦めることに同意した人は、「何かをする」必要性をもはや感じることはない。逆は成立しない。無為に過ごしたとしても、その身のうちに欲望が燃え上がっているのなら、苦しみから解放されて平安を得ることはない。