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社会は狂っている。私たちは大なり小なり狂気を抱えている(畢竟心があれば狂うのである)が、それが大量に集まったものが社会なのだから、必然的に正気のものではあり得ない。

日本語では世間という言葉がある。この巨大でかつ掴み所がないのに、私たちの在り方を規定する異常な精神構造体を指し示すのに適切な言葉であろう。仏教では修行の道に入ることを出世間と言う。狂った世の中から脱して正気の世界を目指す、というわけだが大方の僧は足の先から頭のちょっと上くらいまでどっぷり世間の沼に浸かっている。過去には寺社がならず者を集め僧兵を組織して大暴れしていたし、宗派間での対立はもちろん、同じ宗門内での派閥争いも絶えたことがない。金儲けに奔走し、戦争にも協力してきたし政治にも首を突っ込んで大衆を扇動するしで、とても正常とは思われないことは周知の通りである。

社会に適応する、ということは社会に蔓延する狂気を自ら受け入れる、ことと同義だ。正常な者はこの社会に適応することはできない。努力とか方便とか、そういう問題ではなく原理的に無理筋の話なのだ。きちんと修行を積んで正常になった人たちはだいたい山とか人里離れた所に住んでいる。何故なら世間は彼らを憎み、つまはじきにするからである。世間においては似たタイプの異常さを持った人たちでコミュニティを作り、うっすらその狂気と暴力性に気づきながらも「僕たち正気だよね」と互いをごまかしあっている(気づかないものは筋金入りのあほである)。

地獄だ。

世間に正気の人がいると、その人が何も言わなくても周囲の人は自分たちの抱える地獄に気づいてしまう。それは大変なので追い出すか、黙らせることが必要だ。かくしてイエスさまは若くして磔にされ、脇腹を槍に貫かれて息絶えた。ソクラテスはその正気っぷりを狂乱する民衆と為政者にとがめられ、毒の盃をあおる羽目になった。

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死別ということはたいそう苦しいことであるのにどうしても避けられない。気の合う友人との別れは非常に手痛い。家族同然に過ごしてきた動物が死んだ時のダメージは強烈だ。自分の子供に先立たれたなら「このまま狂ってしまって何もかもわからなくなったらどれほど楽か」と思うほどの苦痛を味わうことになる。そしていずれこの世を去る時間があなたのもとにもやってくる。あらゆる他者、そして自分自身ともおさらばする瞬間が。

しかし、死とは生きていることと実はそう変わりがなく、同じものの一側面なのだ。私たちが生きていると思っているこの「現実」においては死によって、その人が集積したデータ(=記憶)や人格へのアクセスは完全に断ち切られる。死者はもの思うことも発言することも食事をとることもない。

しかしそれは万物を認識によって成立させている世界においてのことである。実際には境界を持たない万物を認識と言葉によって切り離し、あたかも多が成立しているように、私たちがしむけている。死とはこちら側の世界でその肉体の活動、すなわち変化が不連続になった、というだけのことで実のところ全体においては何も変化していない。

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現代では書店にいけば「~の心理学」とかものすごい数の本が並んでいる。専門書も多いが、近年では一般向けの平易なもの、特に恋愛テクニックと自己啓発系の書棚にも心理学を冠した本が花盛りである。しかし、娯楽としての読み物にはいいが、心理学で「生きる」という問題は解決しない。その理由は西洋の人間観がベースになっているためである。特に近年ではアメリカ合衆国が研究の中心になっているせいか、立志伝にでも出てきそうな強力なエゴを持ち、権力を手に入れて他者を服従させ「自己実現」する、そういう人間が理想像とされている。そこにどう近づくか、ということがシステム化されているのが大方の心理学という学問だ。

これは自己実現ではなくエゴ実現である。エゴの求めるところを実現しようとする行為、その実態は底なし沼である。人間の頭で作った椀には一国の富すべてを入れても満たすことができなかった、というおとぎ話がある。寓話の形をとっているが、これは事実だ。なので心理学の求める要件を満たそうとすれば、不幸にまみれながら底の抜けたコップにえんえんと水を注ぎ続け、失意のうちに老いて死んでいく他はない。

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結局の所、私たちは何が幸せであるかをよく知らないのだ。そこで身体的な刺激や知的な興奮を貪ることで幸せになろうとするのだが、それは形を変えた苦痛であるため、私たちはいつまでも不幸なままなのだ。

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スピリチュアリティとは、つまるところ捨てて捨てて捨てまくることである。それも心理的に、内面的に何も持たない。自分の(とおもっている)身体も心・人格までをも「ただの借り物」であって所有しているとか、それこそが自分であるとは見なさない。聖者を気取ってフリをするのではなく、心底それを実感している、ということだ。

これはエゴからすると「どん底」ということになる。大量のエゴからなる構造体である世間から見れば「底辺」という扱いになる。それで全く気にならない、というのがスピリチュアルな自己実現である。

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悟った人には心がない。至道無難禅師いわく「常に何もおもはぬは仏のけいこなり」。創作などに登場する賢者や、スピリチュアリティを売る商売をしている「覚者」たちはとても博識でよく喋るが、ブッダとは何も考えない人のことである。したがって話すことは不要であるし、老子は口数が多いことを戒めている(希言自然)。必要に応じて作動させることはできるのだが、通常彼らの思考は停止しており、思考が作りだす心も当然機能していない。

四六時中強迫的にものを考え、眠っている間すら夢で様々なシミュレーションを行っている私たちからすると「ものを考えない」「心がない」という状態について想像しづらい。一体どのようなことなのか。

私たちが思考するにはオブジェクト、対象となるトピックやイメージが必要になる。考える対象がないところに思考を発生させることはできない。たとえば海を見たこと、あるいは間接的に知りえた人は海の映像をイメージとして、あるいは海から連想されるトピック、漁獲量や海洋汚染、行楽でおもむく海水浴などを思考の対象にできる。あるいは、あなたが「クラ」という言葉の意味を知らないとする。古くからある交易の形態を指す用語だが、全く知らない概念(ここではクラ)を思考の対象にはできない。意識が対象となるイメージを認識したときに思考が開始され、心が生じる。

心がない人たちはそのオブジェクト、思考の対象となる概念やイメージを持っていない。放棄している。つかむオブジェクトがない時、意識は意識それ自体を認識している。思考しているとき、私たちの存在はその思考の大きさに合わせ、限定されてしまっている。意識が自分自身を認識する時、それは広大無辺である。広大、というよりも大きい/小さいという相対的な区別がなくなる。意識そのものは無限(どこまでも続く、というより限定できないもの)であり、この世の全てを含み、またこの世の何でもない。

心を捨て去った人々は無限の中でくつろいでおり、この世の事物と自分自身から自由になっているのだ。