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悟った人には心がない。至道無難禅師いわく「常に何もおもはぬは仏のけいこなり」。創作などに登場する賢者や、スピリチュアリティを売る商売をしている「覚者」たちはとても博識でよく喋るが、ブッダとは何も考えない人のことである。したがって話すことは不要であるし、老子は口数が多いことを戒めている(希言自然)。必要に応じて作動させることはできるのだが、通常彼らの思考は停止しており、思考が作りだす心も当然機能していない。

四六時中強迫的にものを考え、眠っている間すら夢で様々なシミュレーションを行っている私たちからすると「ものを考えない」「心がない」という状態について想像しづらい。一体どのようなことなのか。

私たちが思考するにはオブジェクト、対象となるトピックやイメージが必要になる。考える対象がないところに思考を発生させることはできない。たとえば海を見たこと、あるいは間接的に知りえた人は海の映像をイメージとして、あるいは海から連想されるトピック、漁獲量や海洋汚染、行楽でおもむく海水浴などを思考の対象にできる。あるいは、あなたが「クラ」という言葉の意味を知らないとする。古くからある交易の形態を指す用語だが、全く知らない概念(ここではクラ)を思考の対象にはできない。意識が対象となるイメージを認識したときに思考が開始され、心が生じる。

心がない人たちはそのオブジェクト、思考の対象となる概念やイメージを持っていない。放棄している。つかむオブジェクトがない時、意識は意識それ自体を認識している。思考しているとき、私たちの存在はその思考の大きさに合わせ、限定されてしまっている。意識が自分自身を認識する時、それは広大無辺である。広大、というよりも大きい/小さいという相対的な区別がなくなる。意識そのものは無限(どこまでも続く、というより限定できないもの)であり、この世の全てを含み、またこの世の何でもない。

心を捨て去った人々は無限の中でくつろいでおり、この世の事物と自分自身から自由になっているのだ。